マイノリティの経験は国際理解を一歩前に進める

兵頭純子

2020年東京でオリンピック・パラリンピックが開催されるに伴って、日本国民の英語力底上げを謳うような政策がいくつかでてきた。小学校での英語を「教科」にすること、そして中学校から英語を英語で授業を行うといったもの。アジアの中でトップレベルの英語力を目指すために打ち出された政策であるが、これは決して「国際教育」の本質ではない。英語を話せるようになるのはたしかにグローバル化が進むうえで異文化を持つ人々とコミュニケーションをとるきっかけとなる。しかし、そこに理解はないのだ。中学生の時の先生がよく言っていた。「これからたくさんの外国人が日本に来る。グローバル化がすすんでいったら、日本人も英語を日常的に話すことを余儀なくされるであろう」と。これはあながち間違っていないと思う。しかし、「だから英語の勉強をしよう」というのはなんだか腑に落ちない。他国の人とコミュニケーションをとりたいのなら、もっと他に方法があるのではないか。それこそが「国際理解教育」であると私は強く思うし、留学することでマイノリティを経験すれば体験的に国際理解教育の必要性をより現実のものとして理解するはずである。

国際理解教育とは一言でいえば、国際平和につなげるための教育である。私たちの知らないところで常に戦争や貧困、環境問題などの問題を抱えている地球において、このような問題をまずは知り、そして考え、自分なりにできることを実行するというこの過程をふみ学習に取り組む、これが「国際理解教育」である。今の日本の教育にこの要素は果たしてあるだろうか。私が小学生の時、クラスメイトの一人が「外国人だから」という理由でいじめを受けていた。今思えば、自分たちと違うからというだけで無視をしていたあのいじめっ子たちの気持ちがまったくわからない。そして、その子をかばうことができなかった自分自身も情けない。違いを認める。そしてその違いを受け止める。それができないのは違いを知らなすぎるからだと私は考える。自分と違う人がいる、自分たちとは違う文化がある、そのことを小さい時からわかっていれば違いを拒むことも、自分たちを守ろうという防衛反応もなくなり、差異を受け入れやすくなるに違いない。

英語を今まで以上に学ぶ機会を増やすことは素晴らしいことである。しかし、今ある英語教育をそのまま時間数だけ増やすのか?それはまったくもって無意味ではなかろうか。「グローバル化が進んでいるから英語が話せるように」というのなら、机上での勉強や先生が黒板に書く姿をぼーっと眺めていたり、教科書を音読したりするような教育では意味がない。もっと自分の意見を英語で押し出していき、「コミュニケーション」が取れるようなスタイルをとっていかなければいけないのだ。異文化を持つ人々と話すだけでなく、コミュニケーションをとっていくためには、行動を伴う相互理解が必要なのである。異文化を知り、問題はいったい何なのかを考え、問題の解決策を考えられる力を養う、単に英語が話せるといった意味ではなく、真の国際人が育つ「国際理解教育」の普及がまだまだ日本には不十分であると考える。そういった状況を踏まえると留学による体験は国際理解を一歩先にすすめる人材を育てるのではないだろうか。