国際教育のひとり歩きを見直すとき

濱谷愛美

「国際」という言葉は現在様々な範囲で使用されている。国際日本学部のような、国際と名がついた学部も年々増えてきているように思われる。国際と聞いて私が思い浮かぶのは、英語能力、及び地球規模で考えることといった大きな枠といったイメージである。多かれ少なかれ、真っ先に思い浮かぶイメージが似ている人はいるだろう。では、「国際」とは何を意味するのであろうか。「国際教育の研究」にも書かれていた通り、その意味はあいまいである。ここでは話が広がりすぎてしまうため、「国際教育」の枠を狭めて論じていく。

国際教育の定義はいったんおいておくが、なぜ今国際教育なのかという問いに対する私の答えはまさに、国際という言葉が現在一人歩きをしている、つまり、あいまい化しているからというものである。「国際教育の研究」にも戦間期や終戦後国際教育を発展させるべく多くの会議が開かれてきたが、国際教育の範囲や具体化が不十分であるように思われる。

国際教育は国際性を養う教育ということだとすると、国際性とは何なのだろうか。私はつまるところ、「異を認め合うこと」だと考える。「ユネスコの勧告」や「国際教育の研究」には、国際教育の目的に国際理解、国際平和、国際協力、及び人権と基本的自由の尊重が抱えられているが、それぞれに必要なものは、異なる文化、言語、宗教を認め合うことだと考えるからである。これは受け入れまねするということとは異なる。ただその存在を認めるということなのである。簡単な例で言うと、いじめ問題もこれに還元できる。いじめられる人は大多数とは異なる考えを持ち、少数派となる。しかしそれは異なっているというだけで本来いじめの原因となりえない者である。そう考えると、国際教育という分類には国際平和のために紛争さらにはいじめ問題を解決することも含まれるのではなかろうか。

私は序文にて、国際と聞いて思い浮かぶのは、英語や大きな枠というイメージだといったが、「国際教育の研究」やユネスコの勧告を読み考えたうえで、国際教育には実に多様な種類の教育内容や教育方法が含まれていることを改めて学んだ。それを踏まえたうえで、異なるものを認めるという国際性を養えるような教育こそが国際教育と呼べるのではないかと考えたが、国際という言葉の一人歩きが進んでいる現在こそ、国際教育の内容や方法を考え直すべきだと考えている。

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