国際教育という概念は比較的新しい
岩倉慧
国際教育という概念が存在し始めたのは第二次世界大戦以降だという。それ以前にそのような思想が全く存在しなかった訳ではない。第一次世界大戦後にも、国際連盟教育・国際理解教育が発足し、各国の平和を目指した国際理解への教育がなされていた。しかし、それが本当に世界包括的な平和を目指してものであったのかは不確定である。私の意見としては、国際平和という概念は戦時中に限らずそれよりもっと前から存在していたのではないかと考える。ただそれが世界的な認識のもとで行われていなかったのかもしれない。またそれが教育という段階に落とされるのにちょうど第二次世界大戦終焉、つまり世界的に戦争がもたらす非平和的世界の終了がきっかけになったのではないか。
さて、なぜ今になってこの国際教育が注目されているのだろうか。未だに「国際教育」という概念には諸説あるものの明確な定義付けはなされておらず、曖昧さを含んでいる。ここでは、国際教育を「国際理解」「国際強力」「国際平和」という不可分の一体をなすこの三つの課題をもち、グローバルな相互依存関係への自覚を高めるための教育だと考える。この教育は語学などの知識を養うということよりも、国際連帯、人種偏見否定、異文化理解などの態度を養うことに重きをおき、国際的思考の感性的訓練を行う。これらの教育の目指すところは「世界平和」であり、世界的・人類的諸課題に取り組み世界平和を目標として掲げる国際教育は「平和教育」の換言に他ならないのだ。これが、多くの継続中の紛争が続く今日だからこそ、国際教育が注目されている理由だと思う。
人権の尊重、諸国民間の相互理解、世界平和やそれに伴う全人類的諸課題と世界的進歩は、極めて複雑な社会に生きる世界中の子どもや青年にとってその生きる力となり、自らの生きる意味・存在意義を見いだすものとなっている。これらの平和の基礎は、人類社会すべての構成員一人ひとりの固有の尊厳・人権の承認であり、これが日本はじめ世界の人たちの重要な認識となるべきである。人権という、自身が生まれながらにもつ譲る事のできない権利を認識する事で、全人類の一構成員だという意識を持つ事ができるのだ。
以上のように、国際教育はたいへん広い概念だが、狭義には「差別や偏見を否定し、違いを受け入れることができる人材を育てる教育」ではないかと私は考えている。つまり、世界で戦争や紛争が起こっているのは、人々が自分とは「違う」人に対して偏見や差別、憎しみを持ってしまっているからで、もしそれらを教育によって人々の心から拭い去ることができれば、世界に平和をもたらすことができるのではないか。最年少でノーベル平和賞を受賞したマララさんも「1本のペンでも世界を変えられます。教育こそがただ一つの解決策です。」と言っていた。教育で人々の心から争いの気持ちをなくすことができれば少しずつ戦争はなくなり、本当の世界平和が訪れる。そしてそうした教育こそが国際教育だと私は考えている。
先進国である日本には、人間の人権を遵守し世界平和を目指す国際教育が求められている。国際社会に生きる私たち、そして日本の確かな国際社会への貢献が必要だと言えるだろう。国際社会という現実を自覚、認識するためのキッカケとして海外留学は大きな貢献をするものと体験を通して実感している。